プロローグ 観測
予兆としてはこんな感じ——私は自宅マンションのベランダで、そこから見渡せる風景をデジタルカメラで撮影しています。マニュアルモードで、感度、シャッタースピードなどをあれこれと試して、感覚をつかむため。晴れの日、雨の日、雪の日、さまざまな天気と陽射し。そして私は、シャッターチャンスを狙うのではなく、何も起っていない風景に何かを探す、という方法が好きなので、この一連のミニマルな写真群も、まあ面白いか、とパソコンに保存し、結果として或る街角の定点観測写真が少しずつ溜まっていった。
意外だったのは、そこには「まったく同じ陽射しがない」ということ。
できるだけ多様な状況を求めていても、或る決まった循環はかならず在り、いつかは同じ陽射しが訪れ、以前に撮っていたものと見分けのつかない写真が撮れてしまう場合もあるはずだ。太陽や月や星辰は、毎日同じ軌道で天空を廻り、同じ朝と同じ夜が来て、変わらない一日が過ぎてゆく。そう思い込んでいた。けれども、パソコンにストックされてゆく写真達は、一つとして同じ表情などしてはいないのです。そして、たまたま見かけて撮影した感じのよい夕暮れ。その日のその瞬間に出会った光景は、もう二度とは戻ってこない。刻一刻と変化する目前の風景を、わたしたちは「変わらない、同じモノ」と思い込むことで安心しているのかもしれない。
或る日、外が騒がしいので「喧嘩かな?」とベランダを覗くと、いつもその風景の中央に鎮座していた家の玄関から煙りが出ている。続いて「火事!」と叫びながらその家の住人が飛び出して来た。傍らで見ていた妻はとりあえず119番に通報し、そして私は「助けにいくべきだろうか」と考えた。けれども、ベランダ越しにすぐ近くの家、といっても、私のマンションに面する大通りとその家の路地は直接には繋がっていない。そこに行くには大きく回り道をしなければならないのだ。事実上、私にはただ見ていることしかできない。そこに駆けつけようと、ここで見ていようと、いずれにせよ私は傍観者でしかないのです。火はどんどん燃え広がり、自宅のベランダにも火の粉が飛んで来て、注意しないと飛び火しそう。そして、最初はそんなつもりはなかったけれど、恐る恐る震える手でデジタルカメラを取り出し撮影した。家の人が全員逃げ出すのを見ていたので、ちょっと撮影するぐらい不謹慎ではないだろう、と。
いつもの定点観測風景の中で、火元の家とその一家が経営するアパートが全焼し、隣家が半焼してしまう様子。そして約2時間ほどで火事もおさまり、私は妻と共に食事に出かけた。
翌日、その火事でひとりの老人が焼死してしまったことを知り、「アチャ〜ッ、また家に戻っちゃったんだ」と思いつつ、なんだか妙な罪悪感が残りました。日常であるはずの風景が唐突に変化し、当事者と傍観者に別れてしまう瞬間。すべてが見渡せるのに手を差し伸べようとしても届かない。そして、悪気はなかったのに、流れで写真を撮ってしまった。
なんとなくそのまま私は、その場所の定点観測を続け、晴れ、雨、雪の日の焼け跡と、その後に建てられた新しいアパートの写真をまだ撮り続けている。その連続写真はごくたまに人に見せたり見せなかったり。WEBに公開はしていない。
時おり思うのは、あの火事からもう何年経つだろう、ということ。
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itsushiの投稿です