ドラマ
「ワトさんドラマの『やまとなでしこ』って覚えてる?」
「松嶋奈々子が主演で、たしか00年あたりだったっすかね、放送」
「うん。貧しい漁師の娘が上京して『玉の輿』を目差してスチュワーデスになる。美貌を活かして全身ブランドで着飾ってお嬢様に化けて合コンに明け暮れ、御曹子をゲットする。けれども結婚直前でその御曹子をフって、貧乏な元数学者と結婚するって話」
「なんか彼女に似てるっすね。もしかしたら影響受けてるかも」
「鼻持ちナラナイなんちゃってお嬢様が、何かに失敗して人間性の大切さに気づいて、幸せになるっていう、ありがちなストーリーだから、どうともいえないんだけど。まあ、自分に影響を与えた主人公とかストーリーを人に話すときには、見栄を張ってもっと高尚な例を言ったりする。けれども、実は案外ベタなモノに無意識に影響されてたり、憧れてたりと」
「ハハハ、たしかに。昨日見たドラマの主人公の台詞とかを真似てたりするっすもんね」
自分は「こうである」もしくは「こうありたい」とは誰でも願うことだけれども、そこには明白なパラドックスがある。それはそうした自己実現がどうであれ、それを評価するのはいつも他人だということ。その意味で彼ら夫婦は決してエゴイストであったのではないし、どこか憎みきれなく感じられるのは、彼らが家庭の実態よりも世間の評価を滑稽なまでに優先させる「忠実な僕」だったからでしょう。彼らほど極端ではないにせよ、誰にでもそんな部分はある。
ゴールというものは常に置き換えられ先延ばしにされ、果てしなく再設定されてゆく。現実はドラマのように「ラストシーン」というものが訪れることは決してない。彼女はそうした終わりなき日常に終止符を打ちたかったのかもしれないし、彼女にとっての悲劇は「牢獄の出口の先もまた牢獄」であり、またその諦念は「結局どちらでも同じ」ということなのかもしれません。
PH→ 11
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itsushiの投稿です