『遠足』13_02 エピローグ02

視線
  「陰惨な犯罪事件が発生したあの場所は本当にその犯罪が発生するのにふさわしい、剣呑で物騒な忌避すべき場所なのだろうか」。この取材の取っかかりはそんな素朴な疑問から。そして実際に事件現場を歩いてみた感想は、案の定、それぞれの現場は予想以上に美しい場所だったと同時に、とても平凡な風景。負のイメージが先にある場所を訪れるのだから、実際の現場は「思っていたほどイメージ悪くない」となるのはあたりまえかもしれない。
   先入観を持ち続けるか解除するかで、風景を観照する視線は違ってくる。「読者の好奇心をそそる」という、記事としての商品価値を考えるならば「悪いことが起った悪い場所」という視点を維持しながら、犯罪に関する要素をその風景に探すほうが一般的な取材のあり方として正しいかもしれない。けれども「ちっとも嫌な感じしないんだけど」という個人的印象を封印してまで、職業的に「無いものを在る」とする義務は私にはない。真っ当なプロの事件記者から「お前の目は節穴か」と言われてしまいそうだけれど。
   確かに、事件後になされる調査報道は、その原因を究明し、今後の指標となる何かを探す。つまり事件を帰納してゆく方法。「原因は在る」と仮定して事件現場や周辺の事情を探る。結果事象から遡って原因を確かめる。古くはソクラテスやアリストテレスの時代から語られる伝統的手法。でも、その方法からはこぼれてしまうものが沢山あると私は思うし、現場を訪ねて実感しもしました。「事件を社会に意味づけしなおす」[★1]ということであれば、一般的な手法でなくとも私なりに腑に落ちるやり方があるだろうと。
   だからなにがしかの「作法=フォーマット」を持たずに事件現場を訪れたので、妙に矛盾したような結果になったときもあった。例えば川口市で出合った不穏な風景は、私が先入観を捨て去ることができなかったせいで、ありありとした「不安の立像」になってしまった。でも、こうしたことはそのまま記しました。なぜなら「悪いといわれている場所は、実はそんなことはない」といった逆の結論すら我々は目的にしていなかったからです。
   そのような視線であらためて出会った風景を眺めると(つまり知っていると思い込んでいた風景を眺めると)、とても奇妙な感じがした。私が今まで「現実、リアル」と思っていたものはちっとも現実的でもリアルでもなく、柔らかく溶け出してしまう。行徳、町田、幡ヶ谷、赤羽、富ヶ谷などなど、それらの街は固定された実態だと思っていたのに、そうしたイメージはあやふやなものでしかなく、ゆらゆらと蜉蝣のように立ちのぼっている[★2]。
   私はこのような風景に出会うことで、自分の生きる環境や意味がすべて崩潰し恐怖に置き換わってしまうのではないか、嫌なものを見続けると嫌な人間になってしまうのではないか、と危惧していた部分もありました。でもその心配は、杞憂にすぎなかったかもしれない。もしくはもっと「恐るべきモノに出会う行為」だったとも。

★1
田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書)「愛と暴力」16‐24頁参照。「どのような行為も事件も、それ以後その行為や事件によっていかなる連関に置かれ、いかなるものとして意味づけられることになるかという事後の歴史、物語史の可能性に開かれているのである」(19頁より)。ちなみに、事件現場を「見る」「観照する」ということから始める「取材」という行為は、その実践に「快、不快」といった感情が前提される。したがって、そういった感情を注意深く解除することに成功しないかぎり、どこかに致命的な死角ができてしまうだろう。事件を思考するさいに、「哲学」もしくは「精神分析学」など別の分野の学問の概念や理念が要請されるのは、自らの取材の妥当性や定立性を補強させたりその価値を高めるためなのではなく、その取材の不確実性、つまり死角を確かめ、新たな問題として立ち上げ直すためであるし、メディアリテラシーといったものが要請されるのは、この点に由来するだろう。
★2
とりあげた事件が、東京近郊に偏っているのは、残念ながら地方に遠征できるほどの取材費が確保できなかったためである。また本文で示唆しているように、「秘密カヲル」「和都尊太」というキャラクターはフィクションだ。取材に同行したBUBKAのF君との会話テープを元に、そこから大幅にパラフレーズし、会話の流れと人物の区別をつけるため「秘密カヲル」「和都尊太」というキャラクターを設定し直した。秘密カヲルの個人的なエピソードは、私の実生活から借りて男女を置き換え、女性としてのエピソードは妻や妹の実体験や言葉を借りた場面もある。取材で描かれていることは、私の目で見、我々が感じた事実ではあるけれども、「組み立てられている」という部分で創作的である。したがって、完全なノンフィクションというより、取材した材料を元に組み立て直したセミ・フィクションといえる。けれども逆に「思考の逡巡と変化」という意味ではドキュメントといえるかもしれない。

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