『遠足』13_10 エピローグ10

善き人々
  『光市母子殺害事件』の裁判過程を伝えるTVニュースを妻と二人で見ていた時、私が何気なく「ニュースのコメンテーターって、犯罪について怒りの感情をまじえてコメントしたりするけど、この人、この犯罪の被害者じゃないから怒る理由がないよね。なんで怒ってるんだろ?」と言ったら妻に「えっ?」という顔をされてしまった。
  「直接の被害者が犯人に対して怒る理由はある。でも犯罪の当事者じゃない人が簡単に『犯罪に怒る』っていうのはおかしいんだよね。これはニュースを見ているだけの僕たちについても言えるんだけど…」
  「なにソレ、ゼンッゼンわかんない。アナタこの前、ワタシの家族と一緒に食事してた時もポロッとそんなようなこと言ったよね。『事件の当事者じゃない人が怒っちゃいけない』とかなんとか。あの時、みんなキョトンとした顔してたんだよ。アンタ気づいてなかったかもしれないけれど」
   と、感情的な反応をされ、そのまま夫婦喧嘩に突入。「イヤ、ダカラさぁ、云々」と冷たい口喧嘩が延々続くイヤ〜な空気の夜となってしまった。
   わたしたちは悲観するしかないような現実を見せられると、どうしても楽観は不可能なんじゃないかと思ってしまう。そんな状況にはせめて怒り、フラストレーションを発散することでしかそれを払い除けることができないのではないか、と。あの『光市母子殺害事件』はそのような意味でモンスターなのかもしれない。そして「死刑」という方法も。
   私は犯罪被害者の「怒りや悲しみ」を無視しようとしているのでも、また私やその家族が犯罪被害にあう可能性を無視しているのでもありません。盲目的に犯罪被害者の意見に同調することがはたして「正義」なのかどうか。マスコミが「悪」と判定した人物を攻撃することで、わたしたちは正義を獲得できるだろうか。もしくは正義という曖昧な定義を簡単に使用することは可能なのか。
   犯罪事件は確かにわたしたちに二つの影響をおよぼします。「被害に遭わないようにしよう」と「加害を加えないようにしよう」だ。一つの犯罪は二つの禁止、二つの抑圧を生みます。この双児の抑圧の単純な解決策は「加害者をできるだけ強く否定し、被害者の意見に同調すればいい」というもの。正義うんぬんではなく、わたしたちは無意識に受動的で利己的な選択をしているのではないだろうか[★13]。
  「正しい社会と良い生活をする善き人々を脅かす悪人を探し排除すれば、安心して暮らせる。わたしたちは不安に怯えている。それはわたしたちを危機におとしいれる悪い人やモノが増えたからだ」と。けれども、本当に悪は増えたのでしょうか。また悪を排除するだけで何かが解決するだろうか。
  「北朝鮮は誰もが認める悪い国だ。だから国交を断絶し国際社会と連携して北朝鮮を追い詰め、北朝鮮を崩潰させよう。という考えに同調する他国はあるだろうか。現在のところは難しいように見える。むしろ日本までもが国際社会から孤立することになっていないか。また、日本が圧力をかけ続けることで、事態が好転しただろうか。一部の拉致被害者の帰国に成功したが、日本と北朝鮮の緊張関係は改善されただろうか。逆に悪化したのではないか」
   と、いった主張をもしテレビやインターネットでする人がいたら、その人はいったいどうなるだろう。「ケシカラン!」「非国民!」「北朝鮮のスパイ!」などなどの非難を浴びてしまうのではないだろうか。そのような「炎上」が発生し、大きくなればなるほど、わたしたちはそれを「祭り」として熱狂するかもしれない。
   そうした利己的な堂々巡りは、いつまでも果てしなく続くようにみえる。けれども、わたしたちの選択は確かに利己的なようだが、これらは「善悪」という判断基準によって発生していることもまた確かです。

★13
例えば、人二人がすれ違うことのできる歩道があるとする。この道をAという人が歩いている。そして対向からBという人も歩いて来る。二人とも道のどちらかに寄ることをしないので、これではすれ違うことができない。Aの視点からは、すれ違おうと体を寄せるそぶりを見せないBは利己的に思え、さらにAは自分が利己的にならないように、Bの立場を想像し、Bはこの私とまったく同じように考えていて、体を寄せるタイミングをはかっているのだ、と考えもする。そしてAはしかるべきタイミングでBとすれ違うように体を寄せようと考えている。さてBの視点。Bの視点からはAの背後に、Cというもう一人の人物が歩いて来るのが見えている。AとCは互いに反対側に広がって歩いて来るので、Bは道を遮られ、どちらに寄るか判断ができないでいるのだ。さて問題解決のために、この道を歩く場合には「すべての人は、歩く方向から見て左側に寄って歩く」というルールを設ける。こうすれば、A、B、C共に判断に迷うこともなく道をすれ違うことができる。このルールは全員の利益として機能する。ただし問題なのはCという人物にとっては、このルールの重さが違うということ。この場面にAB二人の人物だけしかいないのであれば、ルールの重さは同じだ。だがCは、この場面の当事者から「自分を除外して考える」ことが可能であり、さらに、ABがぶつかって行動できなくなれば、Cはそこをすり抜けることができ、ルールを意図的に破るほうが自分の利益にもなる。まず、Cはルールを守るのなら、Aがルールを破っていればBに従えばいいし、Bが破っていればAに従えばいい。また、Cはルール判断を保留し、とりあえずAの後ろについていれば、ABのルール遵守がどうあれ二人が揉めている間にCはその場をすり抜けてしまうことができる。さらにCは初めからルールを破り、Bの判断を誤らせ、Aにぶつかるようにしむけることもできる。そしてABどちらもルールを破っていれば、Cも破ればいい。AB二人にとって、このCの利己的な考えや行動は、ルールどうこう以前に不愉快なものだろう。ABは能動的にルールを守らなければならないが、Cは受動的にルールを守りながら、場合によってはそれを破ることが自分の利益になる。そして、わたしたちはABの人物よりも、実際にはCに近い考えや行動をし、もしくはCのような立場を望みながら、ABのつもりになって「ルール遵守」主張することが多いのではないか。

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