ケンペー
事件を探し「大変」な事や「けしからん」事を探し続けるわたしたちは、個々に「欲望する憲兵」だとでもいえそうです。ならやたかしの『ケンペーくん』[★14]を想像してほしい。この『ケンペーくん』になりすまして、街を歩いてみましょう。はたして何人斬り殺されることになるだろう。実際には心の中でのことだけれど、この飼いならされた「欲望する憲兵」は街中でさまざまに斬り合いをする。では何を欲望しているのか? それは「善い」という「神」を欲望している。
わたしたちは「死刑」を欲望するからこそ「凶悪犯罪者には死刑を」と叫び、また自らが「死刑に処されること」を望む。その意味でいえば秋葉原無差別連続殺傷事件を起こした彼の行動はたいへん理にかなっている。彼は彼を無視する世間という、彼の視点からは不条理な集団に私刑(死刑)を下し、また自ら彼らによって死刑に処されることを望んだ。彼にとって死刑とは善き神なのだ。フィレンツェの大聖堂で落書きをした「けしからん女子大生」を日本中がバッシングする。お詫び行脚にその女子大生がフィレンツェの大聖堂を訪れると、大聖堂の館長が現れ彼女を抱擁する。ここでの神はこの館長ではない。インターネットという欲望が呼び寄せマスコミが煽った「日本人」という神だ。だからこそ館長が「かわいそうに」と女子大生を抱擁する寛容さは不条理として無視され、「礼儀正しく謝る」という善き神が現れる。
今は「善」「善意」という言葉が大人気だ。「良い私」ということがもし可能であったら、それはとても甘美な体験。逆に「悪」「悪意」という言葉は不人気だ。「悪い私」というのは「フリ」だけなら魅力的だけど、本当にそうだとちょっとマズい。少し前(といっても10年ほど前ぐらい)はまだ「悪」という言葉の地位も、もう少し高かったような気がするけれど[★15]。
本来はどちらか一方ということはないでしょう。対になる二元性は場合によって反転する。けれども物事を定義する言葉は魅力的なのだ。カタルシスがある[★16]。では「善悪」のどちらからも嫌われる事態や言葉はなんだろう。
それは「先がみえない」「不確か」「曖昧」という言葉。このような状態が嫌われている。わたしたちは不条理を前にして、考え逡巡することを恐れ非難する。
いずれにせよわたしたちはこの不安定な世の中で、せめて善悪どちらかに二元化され、明解な世の中になることを欲望している。しかし「欲望」には善悪がない。個々の欲望がさまざまな様態に種々のレヴェルで接続する中、その繋がりが善にも悪にも見えたりする。そしてわたしたちは、そのような状況の曖昧さにも苛立っている。
つまり、わたしたちが欲望しているのは、自らが能動的に考える善悪ではなく、他の誰か、もっと大きなものが決定してくれる善悪なのです。
[★14]
ならやたかし『ケンペーくん 増補新装版』(ブッキング)参照。
[★15]
10年というよりこの20年での「反体制的である」ということの価値の著しい低下に注目しよう。ちなみに先の『ケンペーくん』が1995年に自費で出版され話題を集めた当初は、この「憲兵」は決して体制的存在の象徴としてではなく、「最後の反体制」的なルサンチマンとしての色彩が濃かったように思う。
[★16]
ネットの掲示板や右派論壇でよく見かける議論で、「自己責任論」というのがある。犯罪者の境遇に理解を示し「犯罪者もまた社会の被害者である」という、昔風の左派リベラル的犯罪者擁護論の対抗として登場する。敗者になったのは個人の「自己責任」であり、敗者であるがゆえに犯罪を犯したとしても同情に値しない、とするもの。しかし、社会の全体で考えるなら、敗者のみに責任があるだけでなく、勝者にもその責任がなければならない。なぜなら、もし「勝者と敗者の社会体」を構成するのであれば、勝者が敗者を使役する(奴隷化する)必要があり、勝者の生存を維持するためには、敗者の生存も維持しなければならないからだ。「勝者のみが生き残り、敗者は淘汰される」という意味での「自己責任論」の欺瞞はこの点にある。かつて格差を否定し平等な社会を標榜した「社会主義体制」の欺瞞と失敗は、それが「階級闘争」であり、単に敗者が勝者にとって変わり、「資本の独占」という状態を強引に否定し、見えなくさせたことにあるだろう。革命によって樹立された多くの社会主義国家は、その資本を一部とはいえ複数存在した特権的な資本家の「企業体制」から奪い、一元的に集中させた中央集権政府の「国家体制」が独占した。国民の奴隷状態はより全体的に強化され、そこでは「奴隷の平等」が成立していた、と。左派リベラルを感情的に批判するために「自己責任論」を持ち出しても、「一方の存在を強引に否定し、見せかけの『快』を創出する」という意味で、根っこが同じであることに注目しよう。
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itsushiの投稿です