『遠足』13_12 エピローグ12

リヴァイアサン
  「善悪」は、その言葉どおり必ず対概念を括弧で綴じた場で発生し、その綴じ方の基準をどうするかで変化してしまうなかなか難しいものです。世相の雰囲気によっては、あまり善悪について表立って語らないようになったり、最近のように積極的に問題にするようになったり。わたしたちは善悪を弛緩させたり緊張させたりしている。
   重要なのは、もともと多元的概念なので、それを一元化することは難しいということ。
   例えば善悪を「快・不快」としてみる。心地良い快感を求め視野を狭くすればするほど、その視界の外にある心地悪い不快感は増大する。逆に、快感の視野を広げれば、不快感は減少する。また「快・不快」は時間の経過によって反転を繰り返す。そして、やがては麻痺し無感覚になる。
   善悪はシーソーというより、膨らませた風船を真ん中で紐で縛って、ヒョウタン形にしたようなものだ。紐の位置を移動すれば、一方は大きく、もう一方は小さくなる。紐が外れたり、その風船の外に出てしまえば善悪は消失する。また、その風船は他の風船と繋がっていたりするので、心臓のようなポンプ器官かもしれない。
   視覚の、味覚の、聴覚の善し悪しがそれぞれに在る。それらの感覚の中では善悪が在るが、脳に伝達されれば、善悪は消失する。近視であれ遠視であれ、不満があっても脳は目を使う。また、失明すれば善し悪しは消える。眼鏡を使えば視力の善し悪しは消え、眼鏡の善し悪しになり、眼鏡を外せば、視力の善し悪しが復活する。「北朝鮮」という眼鏡を外せば、個人としてのさまざまな善し悪しが復活する。友としての、恋人としての、同僚としての、隣人としての善し悪しなどなどが。
  「善悪」は存在するけれどもそれは多様であり、なんにでも通用する「一様な基準」の存在は難しい。けれどもわたしたちは一様な善悪の基準を「存在しえる理念」として必要とし、受容しています。もしくは「特異点」として、それにできるだけ接近しようとする。
   多様な「感覚的善悪」が「内在基準」だとすれば、一様な「理念的善悪」は判断基準が外から到来する「外在基準」といえるでしょう。「他人を喜ばせることが『善』で、他人を怒らせることが『悪』だ」もしくは「ルールを守ることが『善』で、ルールを破ることが『悪』だ」といったように[★17]。
『命の制度』が内から離脱し外へと外在化していった運動と似ています。そしてこの外在基準はまるで自ら意志があるように行動する。ネットをさまよい「炎上、祭り」を生み、憲兵となり街やメディアを徘徊する。まさにホッブズが発見した「リヴァイアサン」だといえるかもしれないけれど、そんな例えは高級すぎるので「たちの悪いおっさん」としたほうがいいかもしれない。この「おっさん」は、人心が集まるほどに気持ち良く酔っ払う。そして「おっさん」は、虚構でありながらも一人の人物に内在したりもする。あの文学者にして政治家の「おっさん」が、どのようにたちが悪いかを思い出してほしい。

★17
外在基準の組織のされ方もまた、さまざまな様態が考えられるだろう。まず各個人間の内在基準の一致による外在基準。次に集団を超越的にコントロールするために設けられた外在基準。そしてそれらを複合させた外在基準などなど。人々の欲望における行動のモデルケースとして、音楽におけるポップス(大衆音楽)とクラシック(芸術音楽)の実態の差異と、その歴史的変化を考察してみるのも面白いだろう。例えば、楽曲というひとつの身体にある局所的な特徴を他の楽曲身体が模倣し反復することを、積極的にであれ消極的にであれ承認するかしないか、という違いがある。ともあれ不思議なのは、出現した外在基準はわたしたちから離脱し自律的になるが、つねに「共同の利益によって創設されたもの」という理念を身にまとうということ。そしてわたしたちは無意識にその外在基準に従おうとすること。

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